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| spamが多すぎる。セキュリティソフトでわけているものだけでこんなにあります。別手段(メーラー)でふりわけているものもありますから、実数はもっと多いのです。 |
[ Posted via CALA-MOBLOG-MT ver 1.30 rel (2006.Mar.07) ]
10月末に刊行された拙論、「分岐的時間の表象を用いた時制・モダリティの連関の説明の試み」が、ようやくリポジトリーに入り、こちらで読めるようになりました。
わたしは最近だんだんひらきなおりをおぼえまして、以前なら学会や研究会がおわったあとの酒席でしか発言しなかったような生煮えの内容を、ずうずうしくも論文に書き、学会で発表するようになってきました。
「自分のつたなさを知るためにも書く!」というのが公式見解ですが、それは一見謙虚な態度のようでいて、じつは思いついたことはなんでもアウトプットするという厚顔無恥でもあります(笑)。
としをとるということは、つらの皮があつくなることなのだなあ、と最近よく思います。これを「熟達」と解するか、それとも「純粋さの喪失」と解するかは、ひとそれぞれ、考えかたによってちがうと思いますが、わたしは断然後者です。
喪失感はあるけれど、あまりかなしそうにしていないところもまた、純粋さの喪失とべつのことではありません。「\(^o^)/オワタ」って感じ(笑)。あ、それから、ジュリエット・グレコの≪Non monsieur, je n'ai pas vingt ans≫も連想するなあ。
なお、このつぎに書いた、「フランス語およびロマンス諸語における単純未来形の綜合化・文法化について」と題した論文(「ああ、また大風呂敷だ」と思ってやってください)が、3月に刊行されることが決定しました。
こちらもお楽しみに、、、ってだれも楽しみにはしていないか。
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うー、午前の帰宅。ヨッパです。
変則的3学期制の筑波では、今月末までつかのまの秋休みなのですが、授業がないだけで、きょう(精確にはきのう)は、大学院説明会要員のため出勤でした (泣)。 しかたがないので、説明会がおわったあと、常州石下の銘酒≪一人娘≫をのんでかえってきました。 |
[ Posted via CALA-MOBLOG-MT ver 1.30 rel (2006.Mar.07) ]
20日からよんでいたTine Van Hecke の2007年の論文、≪La négation de la modalité déontique en français, italien et roumain≫(F. Floriric (dir.) : La négation dans les langues romanes 所収) を、(パソコンでノートをとりながら、かつ世間では3連休なのである程度子どものあいてをしながら、ゆっくりと) きのうの夜までかかってようやくよみおわった。
フランス語の devoir, falloir, イタリア語の dovere, bisognare, ルーマニア語の a trebui は、拘束的解釈(「せねばならない」)のとき、かつそれらの助動詞に否定がかかったとき、拘束的解釈の否定として論理的に予測される「しなくてよい」の解釈ではなく、「してはいけない」の解釈になるといわれている。
しかし、実はつねに「してはいけない」の解釈になるわけでもないということ、時制によって劇的に解釈が変わること、さらに言語によっても若干ちがいがあることを示し、各解釈のうまれるメカニズムをさぐる意欲的な論文だ。
言語間、時制間の相違点もおもしろいのだが、わたしが興味をもったのは、むしろ共通性のほうであって、全般的に、「しなくてよい」解釈から「してはいけない」解釈へと移行するのは、実は思いのほか簡単だということだ。
たとえば、必然的モダリティ表現の否定が軒並み「してはいけない」解釈なのに対して、「しなくてよい」解釈に特化した代替表現であると一般的にいわれている(わたしも初級フランス語の教室ではそう教えている)、ce n'est pas la peine さえ、実質的に「してはいけない」解釈になる実例は存外多い。
たとえばつぎのような実例があるという。
≪Un peu d'autocritique ne fera pas de mal, mais ce n'est pas la peine que les ennemis de l'islam en profitent. 少しの自己批判なら害はないが、それをイスラムの敵が利用するのは無用だ≫
≪Ce n'est pas la peine de fumer, cela vous fait du mal. たばこを吸ってはいけない。それは害をなす≫
≪Ce n'est pas la peine de rentrer du Mexique si vous n'avez pas visité Palenque. パレンケを訪れないならメキシコから帰ってはいけない≫
そういえば日本語でも、「天地無用」、「手かぎ無用」、「ノックは無用」、「勧誘でしたら結構です(=なくて結構です)、間に合っています」「余計なこと」、「そんなことしなくてもいいじゃないか」などの、字義的には「しなくてよい」ことをあらわす表現 (西日本では、より不必要を明示し「要らんこと」などという。とくにいたずらをした子どもを叱るとき (笑)) が、実質的には「してはいけないこと」を意味している。
さらに、英語でも、柏野健次 (2002) 『英語助動詞の語法』によると、通例「しなくてよい」解釈の英語don't have toが、"You don't have to shout" (叫ぶことはないじゃないの) 、"You don't have to snap at me" (そんなにきつく言うことないじゃないの) "You don't have to be sarcastic" (なにも皮肉を言うことはないじゃないの) のように、「してはいけない」解釈をあらわしうるとしている。
イギリス英語でも、"You haven't got to park on double yellow lines-It'a against low" , "You needn't talk so loud" のような例があるという。
これはなぜか。結論からいうと、Van Hecke は、Horn et Bayer (1984) ≪Short-circuited implicature : a negative contribution≫ (Linguistics And Philosophy 7,4 所収) に賛意を表し、「しなくてよい」表現から「してはいけない」解釈にいたる推論が慣例化して、なかば規約的な含意 (Horn らの論文の題名にもなっている「短絡化した含意」) となったとする。この説には大筋ではわたしも賛同できる。
ただ、古典ラテン語から現代フランス語にいたる歴史のなかで、かつては「しなくてよい」をあらわしていたモダリティ表現が、のちに「してはいけない」をあらわすに至ったという事実はあるのか。Van Hecke 自身がみとめているように、必然性をあらわすモダリティ表現の否定形の諸解釈のうち、「しなくてよい」が優勢であったことはおそらく一度もない。
Orlandini (2001) Grammaire fondamentale du latin によると、「してはいけない」解釈はラテン語の時期にすでに優勢であった。Corpus de la littérature médiévale においても、「してはいけない」解釈のほうが優勢である。たとえば、Chanson de Roland (1090年ころ) に出てくる devoir の否定形には、「しなくてよい」と解釈できるものは皆無である。
これをどう考えるか。それほどまでに、「しなくてよい」表現はもともと「してはいけない」解釈にたいへんなりやすいのだ、といえば足りるのか。
いずれにしても、ひさしぶりに心からおもしろいと思える論文を読んだ。反論したいところもあるのだが、それをここに書くとあとでわたしが書く論文のネタばれになるので、これにておしまい。
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快晴。きのうまでよりすこしあたたかい。「勤労感謝の日」という、身につまされる名まえの休日。
息子のことですが、10月はじめにはぐらぐらしていて、最初に抜けるはずだった前の下の乳歯がなかなか抜けず、永久歯が顔をだしてもそのままなので、念のため日曜・休日でも診療している近所の歯科で抜いてもらいました。 「わしらが子どものころは、乳歯がぐらぐらしたら、たこ糸をひっかけて抜いて、『ねずみの歯よりいい歯になれ』ととなえて屋根瓦になげたもんじゃ」などどいいだすと、完全にじいさんです (笑)。 |
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チュニジアでの学会に行ってこられた大学院生のTくんからのおみやげに、なつめやしをごちそうになりました。しみじみと甘くて、とてもおいしいです。 わたしは同時期に国内学会のため盛岡出張でしたので、ことしはチュニジアに行けなくて残念でした。 で、来年こそは行こうとおもっていたら、なんと、来年からは人文社会科学セッションはなくなってしまうそうです。えーん。 |
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| 食事の感覚をつかんでもらい、すこしづつなれてもらおうと、たべさせる食事のほかに少量を手もとにおいていて、これまではこねまわすだけだったのですが、きょうの夕食のとき、じぶんの手でつかんで、はじめてしっかりとくちに運び、少し食べました。うれしいものです。写真はその直後にとったものです。 |
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| 岩手大学の構内には、宮澤賢治が農学や地質学をまなんだ旧盛岡高等農林学校の本館が保存されています。 盛岡にはなんどもきているのですが、このたてものを見たのははじめてです。 |
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出発した7日、東京はむしろ暑かったのですが、わたしは寒いほうが好きなので、凛然とした寒さにも期待していました。しかし、それほどでもありませんでした。1まいめの写真は午前10時ころですが、まちなかの温度計は6度をさしています。 2まいめ以降の写真は、盛岡をおとずれるときにはかならず足をはこぶ、不来方城趾を再訪してきたところです。紅葉がみごとでした。 城趾のなかには、啄木のうた、「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心」がきざまれた碑もあります。 幼稚とおもわれがちなのであまり公言しませんでしたが、啄木はずっとかわらず好きです。 |
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盛岡といえば、わたしが学生のころから好きだったまちで、なんどもおとずれていますが、再訪することは実はたのしみでした。 駅から中心街にゆこうとすると、まず北上川をわたります。ここもたいへん好きな場所です。かもがたくさんおよいでいます。 |
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| 現在、わたしが常任幹事をつとめている日本フランス語フランス文学会の秋季大会が8日から9日、岩手大学でひらかれたため、義務的に7日から9日まで盛岡に出張してまいりました。盛岡へは、新幹線≪はやて≫で東京から2時間半ほどでつきます。 |
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科学研究費補助金 (基盤研究(C)) 課題番号20520348「フランス語および日本語におけるモダリティの意味論的研究」(研究代表者渡邊淳也)により、以下の要領で講演会を開催いたします。関心がおありのかたは、どなたでもご参会ください。
題目:モダリティの意味、モダリティと意味
-日仏対照言語学の視点から講演者:伊藤 達也
(名古屋外国語大学准教授)日時:2008年12月5日 (土)
15時から17時場所:筑波大学人文社会学系棟A516
なお、終了後懇親会を開催いたします。